けいのブログ

自分のTwitterで呟いた事&日常生活&治療、趣味で考えている事をまとめる(認知行動療法)自分が見る専用のメモ帳、日記みたいな使い方 基本ひきこもり

自分が好きなモノが世間から抹殺されない為に

 

これ書いてて思った事。

icchiku1783.hatenablog.com

自分が好きなモノって世間から与えられたモノとそうじゃ無いモノってのが有って、世間が作った与えられたモノって受け手の人間が少なくなり(ドマイナー化)価値が無くなると歴史から抹消されると思った。

デジタルタトゥー、データは消えないっていうけど依り代、媒体、インターネットが無くなったら丸ごと吹き飛ぶ。

だから俺は現物主義が治らない…w

あと印象深いのが養老さんが言ってたのかな?「みんながそう思ってる事は有利、力がある」だっけ?「歴史は書かれていることより書かれていない事に注意」とか小言?ちょこちょこ頭の中に残ってる。

まとめサイト見てたらアクリルスタンドが売れてるつってて「正気か?」って思った‥‥w

このブログの初期に絵に描いた餅はうまいって書いたけどこれが現実化しつつある…

主体が自分か絵か?絵が人を選ぶって言葉もあるけど…アクリルスタンドに選ばれてもしょうがないもんな…w

icchiku1783.hatenablog.com

もうAI(人工知能)が発展して材料工学も進化しとるからアクリルスタンドとか売り手の洗脳にシェイクされないで自作でオタクグッズ作った方がいいよ(自分で鑑賞用ね。売ったら著作権法違反だから…w)

アクリルスタンドが流行る要因考えたら、スマホの画面を人間が触ってるからそこら辺の触覚が誤認識でリンク(スマホ扱う快感と触覚のリンク)してアクリルスタンドに好感が生まれてるのか?とか考えたりした。

石像、木像掘ったり昔の人の方がオタクな気がする…w

今みたいに情報って言葉も無いし…

念の強度は情報化されて無い時の方が強いと思う。

念の依り代の言葉も少ないから。

動物の念に近いのかもね。

こう書くとスピリチュアル系が動物霊?がどうたらこうたら言うけど、あんたら虫、動物以下だよって事がわからんのに偉そうな事言ってるから救いようがない。

動物、虫の方がよっぽど生命力あふれてる。

スピリチュアル系は生きながらに死んでる人達だから‥w

そういう人とは俺関わりたくない。

時間の無駄なんで!こっちに来ないでほしい…w

AI(人工知能)でオカルト系、スピリチュアル系、疑似科学がパージされればいいわ。

俺が嫌なのはゾーニングの話ですね。

別にオカルト系、スピリチュアル系、疑似科学信じてる人いてもいいけど、領域侵犯すんなって話です。

個人で消費する分にはオカルト系、スピリチュアル系、疑似科学はいてもいい。

布教すんな!って話。

YouTubeにオカルト系、スピリチュアル系、疑似科学系たくさんいるよ!

で大体目的は、お金!w、信用(承認欲求)。

さっき書いたけど俺はドマイナーな方なんで多勢に無勢で話通じないんだよな…w

オカルト系、スピリチュアル系、疑似科学系はある種の真っ当さ、秩序が担保されてるから機能してると僕は思ってます。

ここは逆さ眼鏡で見るとわかる。

言行不一致ですから…w

嘘吐きと付き合うのはコストがかかる。

養老さんは「不信はコストがかかる」って言うけど、信じたらもっとコストがかかる話もありますって本人に会う機会があったら言いたいわ…w

本当、無駄な仕事増やさんで欲しい。

機械化が進んで仕事から解放されたとしても仕事を作りたがる人間の行動は謎ですね…

そんな働きたいのかな?て思う。

生きるだけで精一杯なのに…

南直哉和尚の「苦しくて切ないすべての人たちへ (新潮新書 1037)」は読みたいっすね。

Amazonのレビューに笑ってしまった…w

自業自得の所は正鵠を得てる。マジで今こう言う奴多いからなぁ‥w

 

 

2024年4月22日に日本でレビュー済み

 
タイトルがややスピっているのでウッとなってしまったが、読めばいつも通りの、仏教の核心を捉えつつしかし軽妙な筆致の文章がひたすら並んでいる。連載記事をまとめたものらしく、そちらの看板は「お坊さんらしく、ない。」。こちらのほうが内容に即してるかもしれない。
たとえば以下のような、悪い意味で新自由主義的な人たちに対する痛烈なディス。
「思いも寄らない苦境に陥った人々に対しても、「自己責任」や「自己決定」を言い募る、イイ歳をした大馬鹿者がいる。彼らの頭の中身は、昂進する自意識にのぼせた思春期の連中と変わらない」
要は人間が出来ていないということだが、こうした問題意識はむろん、仏教の思想に裏付けられている。
「これ(「自業自得」)を簡単に他人に向けて言う人は、私の経験ではほぼ例外なく、「業」の自覚が絶望的に浅い。ということは、大した「自得」もない。その上、他人の「行い(業)」を云々することに傍若無人なほど熱心である。他人を簡単に責めるのは、未熟な者の最もわかりやすい特徴の一つだ」
このように仏教は本来、自己のあり様を反省的に見つめるための思考の枠組みである。そうした前提からすると、昨今流行りの「コミュ力」といった言葉も、生まれつきの対人能力ではなく、度重なる経験と自省の結果として理解される。
「「コミュ力」なとど言い出すのは、意思疎通での失敗を過剰に恐れる連中か世代が、この困難を「能力」の問題に矮小化しているのだろう。くりかえすが、これは能力の問題ではない。失敗と反省の量の問題である」
言い方はハードだが、正鵠を射ているように思う。娑婆の話題についてこういう力強い発言のできる日本の僧侶はだいぶ少なくなった。この「らしく、なさ」は貴重である。