けいのブログ

自分のTwitterで呟いた事&日常生活&治療、趣味で考えている事をまとめる(認知行動療法)自分が見る専用のメモ帳、日記みたいな使い方 基本ひきこもり

適切な汗の書き方がわからない、きわっきわの話が難しい理由?

 

初めて予約投稿した。

時間の設定が出来んわ?何で?

 

 

 

 

 

 

暑さしのぐには、空調効いた部屋で服脱いでってしたらいいけど、それに慣れたら身体が寒くなる。

身体が汗かくくらいがちょうどいいけど、その「ちょうどいい」の加減がわからないのが問題。

どのくらいがちょうどいいのか?

これは個人差があるからわからん。

日頃から身体使ってたら加減がわかる。

日頃から身体使ってないからそれがマズイ。

身体と周りは境目が無い(空気とかね)

どこと身体を合わせるか?で身体は自動的に合わせる(苫米地さんが言ってたホメオスタシス、コンフォートゾーン)

「どこ」ていう変数をどう設定するか?で身体が変わる。

こればっかりは自分の身体使って試行錯誤して失敗と反省を重ねるしかない。

南直哉和尚の「苦しくて切ないすべての人たちへ (新潮新書 1037)」のAmazonレビューで書いてたように、

「思いも寄らない苦境に陥った人々に対しても、「自己責任」や「自己決定」を言い募る、イイ歳をした大馬鹿者がいる。彼らの頭の中身は、昂進する自意識にのぼせた思春期の連中と変わらない」
要は人間が出来ていないということだが、こうした問題意識はむろん、仏教の思想に裏付けられている。
「これ(「自業自得」)を簡単に他人に向けて言う人は、私の経験ではほぼ例外なく、「業」の自覚が絶望的に浅い。ということは、大した「自得」もない。その上、他人の「行い(業)」を云々することに傍若無人なほど熱心である。他人を簡単に責めるのは、未熟な者の最もわかりやすい特徴の一つだ」
このように仏教は本来、自己のあり様を反省的に見つめるための思考の枠組みである。そうした前提からすると、昨今流行りの「コミュ力」といった言葉も、生まれつきの対人能力ではなく、度重なる経験と自省の結果として理解される。
「「コミュ力」なとど言い出すのは、意思疎通での失敗を過剰に恐れる連中か世代が、この困難を「能力」の問題に矮小化しているのだろう。くりかえすが、これは能力の問題ではない。失敗と反省の量の問題である」

南和尚はよく切れる言葉だ…俺は全く道元とか知らんから‥w 勉強に成る。

結局は、「失敗と反省の量の問題」てのはそう。

こればっかりはコスパとか言ってられん。

時間かけて経験せな分らん。

そもそも論身体はそれだけの歴史、年月をかけて出来上がってる。

エアコンの歴史なんてたかが知れてる…w

知れてるけど便利で権力がある。

便利という権力に抗う事…抗うって言うと二項対立ぽくて嫌だな‥

色んな選択肢が有る事を試行錯誤して知っていく。

知っていくには過程がいるから、その過程をまずは体験してよ!って事だな。

丁寧できわっきわな話って時間の積み重ねがどうしても必要。

ああすればこうなるで、済むほど単純じゃない。

この記事のタイトルの答えがあるなら、やってみないとわからない。

自分だけの答えはやればわかる、やらないとわからない。